kiyo_hikoのブログ

メモ+日記?

読了感想:無常の見方

ストレスがマシマシだったので気の持ちようとか考えたくて読んだ。 印象に残った部分を自分の解釈と相乗りでメモっておく。

祇園精舎の鐘の声」には諸行無常の響きがある

↑もう自分の解釈
この本では最初から最後に亘って世の中すべて無常であると喝破している。
世間でいう世を儚んだ「無常」とは断片的な考え方に過ぎないと。

無常とは世の中で起こるありとあらゆる変化、ありとあらゆる現象を言う。
何もかもが一定しておらず常に移り変わっていて、 例えば自分達人間は飯を食い糞をして、日々の細胞を取り替えて、80年「生きているように見せている」。
自分と言う人間は変わっていないように見えて、日々(というか一瞬一瞬で)変わり続けているのだと。
そして世界も一瞬一瞬で変わっている。

  • この本を読んだあと、その内容を記憶して脳のシナプス回路が変わる。
  • 内容を少しでも記憶しようとブログにメモを取ろうとPCのスイッチを押せば常にモニターから光速の光が目に次々と飛び込んできて、知覚細胞に消えていく。
  • これを書いたらブログ運営会社のサーバーのSSDなりに記録され、SSDが少し変わる。
  • SSDも製品寿命の中で刻一刻と劣化(変化)していくし、いずれ新しいSSDに取り換えられる。

無常によって生きており、無常によって感じ、記録し、何かを残して、何かを失っていくということ。 …らしい。

悠久に建っている法隆寺だの、強固に安定して聳えるスカイツリーだの、 無常とは無縁に見えるものも内部では材が極わずかずつでも変質しているし、 原子レベルになれば一瞬でも止まっている電子は一つもないはず。
また宇宙レベルで観れば地球や太陽系、何なら銀河系も物凄いスピードで移動しているので、 あらゆるもの、人、一瞬一瞬が定位置ではなく、まったく違う場所に居る。

音も振動なので、波として周囲を動かす→人間に届く→耳が電気に変換する→脳に現象として認知される …という変化の連続そのもの。

なので、祇園精舎の鐘の声だろうが、朝のラジオ体操の歌だろうが、 それら(ありとあらゆる音、ひいてはありとあらゆる観察される現象)は、すべて諸行無常

無常そのものである。

…ということだと思う。

また無常は、得る側面、失う側面も両方あるということ。
平家が滅ぶ=同情的な奴には哀しい、源氏支持者には源氏繁栄のきっかけ。
観る対象を買えれば、家を失う=滅びを得る。

全てがまるで複式簿記みたいに両面性がある。
モノポールみたいに片面的なことはあり得ないので。

永遠はないよ

永久不滅の存在なんて人間が作り出した妄想です。そんなものは無い(あるとは言えない)のです。

という話もちょくちょく出ていた。例えば永遠の神。
私はキリシタンII世として育てられたので聖書に幾ばくかの造詣はあるが、 全く信仰しておらず、聖書もおもしろい小噺が一杯乗った書という程度の認識だった。

その、神が信じられない理由も無常から説明ができる様だった。

  • 完全体の神様が何故か不完全な人間を作って地上で働かせたり争わせたりする。
  • 不完全体どもに自らを崇拝させ、気に入ったら天国に迎え、気に入らなかったら地獄に堕とす。

というようなことをやっている神が、なぜ永久不滅の存在と言えるのか。   許すだの許さないだのやっている時点で、神という存在の意思は変わってしまうので、 神すらも変わり続けている=無常という事になる、らしい。
「お前天国に迎えたけど、やっぱり明日から地獄な」ということがないと、どうして言えるのかと。 そんな存在など信じていいのかと。  

そんなこんなで、永遠などまやかしと言えるということ。

過去を嘆く=意味がない、未来に希望を持つ=苦しみの原因

ありとあらゆる存在が一瞬一瞬で変わっているということは、昨日の自分と今日の自分は既に別のものであるということ。
昨日喧嘩をした相手を怨んでも意味がない、過去の記憶に基づいて苦手な相手を「嫌だなあ…」と思っても意味がない。

ここは凡人では割と難しい事だと思う。誰にでも強烈な怨みを抱く相手は居るだろう。

私には乳児のうちに私を放り棄てて離婚した父、何回も結婚を繰り返し見た事もない兄弟姉妹を大勢つくり、 顔も知らないうちに死んだ父がいて、そいつはどうしても許せないし、 同様に私を放り棄てて再婚した後どこかで三人の異父兄弟を作って幸せに暮らしているだろう母、 私が死んだらその遺産を虎視眈々と狙う母をどうしてもゆるせない。
しかしこれらはいま、もう私を生んだ父母とは別人であるという事である。 (父に至ってはもはや人じゃなくて骨になってるし) すべてはただの現象である、と割り切った方が幸せになるのだ。

未来も徒に希望を持つべきでないとも。
今希望する私と、将来それを収穫する私は別の存在なのだとということ。
100mをボルトさんより速く走る夢を持っていたとして3年は打ち込み大会に出るレベルになったとして、 交通事故にあって脚を悪くすればそれまで。もはや速く走る私は居なくなってしまう訳で。
だから、未来を夢見て生きるよりは、今がより良いという生き方をした方がいいはず。
恐らく無常的には今走るのが楽しいから走るんだ、という生き方が健全なんだと思う。

ジョジョ6部でプッチ神父が「未来を知り、覚悟することで人間は幸せになる」とか何とか言ってたが、 あれとは真逆の生き方。
未来がわからないから、「今日は何があるかな…」と生き、自由であること。

最後に、仏教本ということになるのかな、しかし宗教とは無縁

ここまで解釈交じりなので不正確な理解もありそうだが、 このように仏陀の見たらしい世界はとにかく「無常」、 何かに対する拘泥を棄てることで悟れる、または悟りに近づけるらしい。 「悟ろうとするなら100%悟れ」なんて言われることもない。

正直部外者からみた仏教って、なんちゃら菩薩だのなんちゃら如来だのの様々な仏像が ビックリマンのヘッドみたいにたくさん居て、その像を崇拝して、人が死んだらお経を上げて 墓代もらうみたいな謎集団の印象だった。 教義もどこぞの基督教みたいに、居るかいないかわからない超越存在にすがれば 救済されるみたいな胡散臭いものだろって印象だった。 あと仏教系カルトってほんと酷いものだし。

しかし何々に帰依しろとか、お経だか念仏だか?唱えろとか、そういう話とか一切出てこなかった。
全ては無常である、価値はない、拘りを棄てよということ。
仏教の起源である仏陀はきっとシンプルな人だったんだろうな。